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東京青年

片岡義男






 ヨシオは私立の高校に通う三年生だ。彼のいるクラスの人数は男女十二名ずつで、合計二十四名だ。十二名の女性のなかに美人がふたりいる。特別の教科以外はいつもおなじ教室だ。その教室の、右端の列の前から三番めの席に美人がひとりいる。もうひとりは、中央からひとつだけ左に寄った席の、うしろからふたつめの席にすわっている。
 本来ならヨシオの席はいちばん窓側のうしろから二番めだ。彼は右隣りの人と席を代わってもらった。だから彼の席は美人の左隣りだ。授業中、ふと、彼はその美人を見る。頭のかたちのいい、したがって彫りの効いた、すっきりとまとまった横顔をしている彼女は、端正な雰囲気の常にある理知的な美人だ。冷たい、と多くの人は彼女を評した。しかし、印象は冷たくても美人であることになんら変わりはなかった。身のこなしは常に静かで、りんとした声でよく質問した。
 自分は美人が好きだということを、ヨシオはよく自覚していた。ごく幼い頃からそうだったと両親から聞かされていたし、彼自身で記憶している幼児体験のなかには、美人が大きな場所を占めていた。まだ小学校に入る前、幼いヨシオはひとりで駅まで歩いていき、改札口の前に立ち、出入りする人を観察する。美人がとおりかかるとヨシオは彼女に歩み寄り、「お姉さんどこへいくの?」と、彼女を見上げて聞く。「お家へ帰るのよ」とその女性が答えると、「僕もいく」とヨシオは言い、彼女についていく。当時のヨシオはまだたいへんに可愛く、連れていかれたまま夜になっても帰って来ないということが何度もあった。自宅を訪ねて来た人が美人だと、その人が帰るとき、「僕も帰る」と言い張るのがヨシオの常だった。
 クラスにいる十二名の女性のうち、ふたりが美人。まあいいか、というのがヨシオの結論だ。授業はつまらなかった。おそらく誰にとってもそうだろう。つまらないなあと思うとき、彼は右隣りの美人、日比谷優子を見る。なぜだか理由はわからないが、気持ちを集中させ、たいへん熱心に優子は先生の語ることを聞いている。不思議だ、とヨシオは思う。この若い美人はいまいったいなにを思っているのか。まったく見当もつかないところが不思議、つまりヨシオにとっては面白いのであり、だから彼は近い距離から彼女をときどき見るだけで充分に満足だった。おなじクラスでしかも隣りどうしの席なのだから、親しく会話を交わすことは常にあった。しかしそれ以上のことを、ヨシオは望んではいなかった。
 ヨシオが通っているその私立高校には、校内に売店がいくつかあった。書店、文房具店、スポーツ用品店、時計店、それにパンや飲み物を売る店などだ。五月のある日、パン店の店員が、それまでのきわめておとなしい青年から、女性に代わった。ヨシオはそのパン店の常連だった。毎日のようにそこでパンや飲み物を買った。店員が女性に交代したその日、彼女はたいへんな美人だ、という評価をヨシオは下した。彼女が並はずれた美人であることは、ひと目見れば、誰の目にも明らかだった。
 その日以後、授業中にふと彼女について思うことが、何度かあった。ただ席にすわっているだけの授業中、退屈さの反対側にあるものとして、ヨシオは右隣りの美人を見た。そして連鎖反応のように、パン店の女性について思った。彼女はいまどうしているだろうか。いま彼女も見たい。そんな思いを何度か繰り返したあと、ヨシオの頭に突然にひらめくものがあった。いまは授業中だ。ということは、全校の生徒はみな教室のなかにいる。売店はどこも客はいず、パン店もそうであるに違いない。そして美しいあの女性は、ひとりでパン店にいるはずだ。
 彼女がひとりで店番をしているときに自分がそこへいけば、客としての自分は彼女をひとり占めにすることが出来るではないか。思いつきはすぐに実行する性格ないしは癖のヨシオは、さっそく次の授業を欠席した。図書館で始業のベルをやり過ごし、どの教室でも授業が始まって校舎のなかが静かになってから、彼は図書館を出た。誰もいない廊下を彼は歩いた。長く直線で続く校舎のいっぽうの端に図書館があり、もういっぽうの端に売店が位置していた。どの教室のなかでも授業がおこなわれていた。あるクラスの授業は英語だった。廊下に面した窓ガラスの、上から二段までが透明だ。背のびしたヨシオの目は、黒板に書いてあることをとらえた。not only...but also と、黒板には書いてあった。
 パンの店には彼女がひとりでいた。客はいなかった。サンドイッチを三種類とカレーパンをひとつ彼は買った。売店のうしろには食べるためのスペースがあった。細長いテーブルがいくつか並んでいて、どのテーブルも多くのストゥールが囲んでいた。ただそれだけのスペースだが、昼食の時間にはここに生徒たちがいっぱいに入り、理由もなく大騒ぎになった。いまは誰もいないそのスペースのなかで、ヨシオはひとりでまずカレーパンを食べた。そしてストゥールを立ち、売店へまわった。彼はコーヒー牛乳を一本、買った。
 それは牛乳とおなじガラスの容器に入っていた。厚紙のふたを短い千枚通しのような道具で突き刺し、店番の女性は蓋を取ってくれた。その手つきと指の動きをヨシオは見ていた。指の動きかたはたいへんに美しい、と彼は思った。手渡してくれるコーヒー牛乳をヨシオが受け取るとき、ふたりの目が合った。彼女は微笑した。彼も微笑した。
「僕はヨシオと言います」
 と、彼は言った。
「ヨシオさん?」
「そうです」
「ヨシオさんという苗字みょうじなの」
「いいえ。名前です」
「なにヨシオさんと言うの?」
「苗字はどうでもいいですから、名前だけ覚えてください」
「どういう字を書くの?」
「片仮名でいいです」
 彼女はヨシオを見た。なんと返答すればいいのか、つまりこの少年を自分はどう扱えばいいのか、彼女は考えた。そしてその結果として、
「私は高木節子よ」
 と、彼女は言った。
 いい声だ、とヨシオは思った。声になった彼女の言葉は、のどの円柱の底から、曇ることなくまっすぐに出て来ていた。
「僕はヨシオです」
「わかったわよ」
 コーヒー牛乳を持って、彼は食べるためのスペースに戻った。サンドイッチをひと種類食べ終え、コーヒー牛乳を半分ほど飲んだとき、彼女が入って来た。入口の近くでストゥールにすわり、背後の壁に背をもたせかけ、脚を組んだ。そして持っていた雑誌を開いた。『スクリーン』というタイトルの日本語の雑誌だった。表紙にはハリウッドの女優の顔がカラーで印刷してあった。ジャネット・リーではないか、とヨシオは思った。
 ヨシオの位置から高木節子を右側面から見ることが出来た。彼女の横顔の出来ばえを彼は観察した。ゆとりのあるスカートに、節子は半袖はんそでのシャツを着ていた。肩の作りの良さ。腕のつけ根の安定した太さ。そしてそこから指先までの、すんなりときれいに流れる線。髪のまとめかたの巧みさと、節子に良く似合っている様子。腕のつけ根の心地良い太さと対応している、張りのある胸のふくらみ。たいへんな美人ではないか。映画スターになれそうなほどだ。ジャネット・リーを軽く越えているのではないか。これほどの美人がなぜ私立高校でパン店の店番をしているのか。そのことの不思議さに完全にからめ取られているヨシオに、
「いまはなにの時間なの?」
 と、雑誌に視線を落としたまま、節子は言った。
「いまはサンドイッチを食べています」
「授業中でしょう」
「欠席しました」
「なぜ?」
「お腹が空いたからです」
 この日以後、おなじ時間におなじことを、ヨシオは何度も繰り返した。十一時から十二時のあいだに、高木節子もサンドイッチに牛乳の昼食を食べることを、ヨシオは発見した。だから彼はその時間に合わせてしばしば授業を欠席し、パン店へいくこととなった。
「このところ欠席が多いぞ」
 と、三人の先生からヨシオは注意された。そのうちのひとりは欠席の理由を問いただした。
「僕の不注意です」
 というヨシオの返答に、クラスの何人かが笑った。
「不注意?」
「そうです」
「どういう意味だ」
「うっかりしていたり、忘れたりしたのです」
 何人かがまた笑った。
「うっかりするのと忘れるのと、どう違うんだ」
「宿題にさせてください」
 その授業でヨシオは教壇へ引き出され、復習から発展していく応用問題で、最初から最後まで絞られた。そのようなことと引き換えに、高木節子と差し向かいで昼食を食べる時間を、ヨシオは誰にも知られることなく手に入れた。
 ヨシオは節子の観察を続けた。横顔の出来ばえが素晴らしい。髪の作りの特徴のひとつは、耳を出すことだ。横顔の良さを、おそらく節子は自覚しているのだろう。だから耳を出す。耳を出すと、頬からあごにかけての曲面の魅力が、一目瞭然りょうぜんとなる。顎から喉へ、そして首の円柱。首をうしろへまわり込むと、そこにはうなじが待っている。肩にかかりそうでかからない長さの髪は、うなじの魅力の秘密をなかば隠し、なかば明らかにしていた。耳になにかあるといい、とヨシオは結論した。なにかとは、装身具、つまりこの場合はイアリングだ。正しい選択のイヤリングを耳につけるなら、高木節子の美しさは何倍にも増幅される。ヨシオはそう確信した。

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